おすすめジャズメンベスト3 Recommended JAZZ Men Best3
ジャズ100年の歴史の中で、幾多ものジャズメンがしのぎを削り、個性を磨き、ジャズの歴史にその名前を刻みこもうと研鑽を重ねた。ある者は成功し、ある者は名前を知られる事もなく去っていった。
我々が知る事が出来るのは、その数え切れない大勢の中で、一部のジャズメンでしかない。しかもそのほとんどが、レコードなりCDなりを通してである。それらの記録を残せたジャズメンは、抜きんでた実力があり、仲間に恵まれ、しかも強運の持ち主だと言える。
しかし、いかなエリート集団だとて、その中では優劣や、順位、地位などのヒエラルキーは存在する。
今回ご紹介する「おススメジャズメンベスト3」は、その明らかな階級はひとまず置いておき、むしろ実力の割には目立たない、無冠のチャンピオンとでも言うべき愛すべきジャズメンを特集する。
なぜならば、ジャズそのものが、一種ひねくれ、格好つけ、必要以上にインテリジェンスを誇示した、マイノリティーな粋がった音楽だからだ。
そんなジャズの世界にあっては、波にのまれながらも必死に浮かびあがろうと努力はしているもののあらゆる点で今一歩大スターには成りきれないジャズメンでも、我々ファンからして見れば、充分に脚光を浴びるに値する「スター」であることは疑いようがない事実だからだ。
ベース
ベースはその名の通り、音楽の土台、基礎となるべきものだ。基礎のしっかりしない堅牢な建物が無いように、ジャズにおいてもベースの存在は、音楽の流れにおいて、揺るがない道しるべとして機能してきた。そのベースが、モダン・ジャズ期において、早くもメロディ楽器としての存在感を発揮してくる。音楽を支えながらも、メロディアスなベーシストたちを紹介しよう!
第1位 「スコット・ラファロ」
モダン・ジャズ期において、最もメロディアスなベーシストは?と問われれば、やはりこの男の名前を上げずにはいられない。「スコット・ラファロ」モダン・ジャズ期最大のそして最初に、メロディ楽器と対等にベースでメロディを奏でた男。
スコット・ラファロの生涯はその偉業に比例することなく、あまりにも短い。スコットは1961年に25歳で交通事故で早逝してしまう。その短い生涯のさらに短い音楽家としてのキャリアは、1959年ピアニスト、ビル・エヴァンスとの出会いから急速に輝きを放ち始める。
大学を中退してプロ活動に入ったスコットの、ビルとの出会い以前の録音からは、非凡なベーシストとしての印象は受け取ることができない。そこには、年若い平凡なベース奏者としてのスコットしかいないのだ。
スコットは、ビル・エヴァンスにより覚醒し、稲妻を発して天空に向かって飛び上がる昇竜のように、まさにジャズ界に衝撃を与えた。そのビル・エヴァンスのピアノと対等にメロディを紡ぐインタープレイと言われるスタイルは、それ以前のジャズ・ピアノ・トリオのスタイルを一変させるに十分な影響力を持った。
ビル・エヴァンス「サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」
スコットのベースの凄さを知るには、まずは「サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」からお勧めしたい。このアルバムの中で繰り広げられるやり取りは、そのまま当時の最先端ともいえる、そして現在に至るまで継承されているピアノ・トリオの最も完成した姿を聴くことができる。ここにおいては、ブルースもスタンダードも従来のイメージを一新し、メロディ楽器と伴奏という概念を覆した、二人の音楽上の対話が記されている。
ビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビー」
同じくライブ録音の「ワルツ・フォー・デビー」では、ビル・エヴァンスの代表曲のようなこのワルツが、スコットのためのものでもあることをはっきりと認識することができる。
ビル・エヴァンス「ポートレイト・イン・ジャズ」
この記念すべきビル・エヴァンス・トリオの最初の吹き込みとなった「ポートレイト・イン・ジャズ」では、最初に聴いた、耳なじんだ「枯葉」の斬新さがききもの。二人の最初期のういういしいコラボレイションに、来たるべき新時代の幕開けを予感させる好演。
この他にもう1枚「エクスプロレイションズ」も必聴。ラファロとエヴァンスの4部作と言われる、この4枚にこそ、偉大なるジャズ・ベースの改革者、スコット・ラファロの偉業が凝縮している。
第2位 「ミロスラフ・ヴィトウス」
チック・コリア「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス」
ミロスラフ・ヴィトウスは惜しい人だ。早熟の大天才として、1968年にチック・コリアの「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス」で周囲を驚かすほどの名演を披露、一躍時の人となった。
そのまま行ったら、ジャズ・ベース界の第一人者になれるほどの存在感を放ち、事実その後は、マイルス・デイヴィスとも共演、ジョー・ザビヌルやウェイン・ショーターと「ウェザー・リポート」を結成。日の出の勢いでジャズ界に君臨したかに見えた。
そのヴィトウスが、現在なんとも中途半端な評価しか得ていないのは、不思議な現象だと言える。現在に至るまで、彼の代表作はと言われると、最初の衝撃だったチックの「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス」になってしまうということが、天才ヴィトウスの音楽上の業績としては、淋しい限りだ。
ミロスラフ・ヴィトウス「ミロスラフ・ヴィトウス・グループ」
そんな中、自身のグループでの、「ミロスラフ・ヴィトウス・グループ」は聴きごたえのある秀作。1曲目「フェン・ファイス・ゲッツ・ポール」の明るくメロディアスな曲調によるベースソロが、うっ憤を晴らすかのような爽快感がある。フリー系のサックス奏者、ジョン・サーマンのバリトンサックスによるフリーなソロが良いスパイスとなっている。
また、ピアニストのケニー・カークランドが、良い意味でのポピュラーなセンチメンタルさで、音楽が重く深刻になるのから救っている。ラスト曲の「イーグル」においては、ヴィトウスの確かなテクニックに裏打ちされたアルコの美しさ。また、ヴィトウスにピッタリと寄り添うかのようなジョン・サーマンのバスクラリネットが、ベース・デュオかのような効果を出している。時折りはいるウインドチャイムも効果的にひびく。
これらの曲のようなある意味わかりやすいメロディを追求した方が、さらにヴィトウスのテクニックの冴えを引き立てて、彼が発表する作品としても多くのリスナーに愛されるものが多くなったのではないだろうか。
「StAR」ピーター・アースキン
ドラマーのピーター・アースキンとノルウェーのサックス奏者、ヤン・ガルバレクとの3人のアルバム「StAR」には、そのヒントが隠されている。1曲目表題曲の「StAR」は、ヤンお得意のノルウェー民謡調の曲。どこか親しみやすいメロディだが、やや暗く思い。むしろこちらよりも、5曲目におかれたヴィトウス作の「ローゼズ・フォーユー」に注目したい。このわかりやすいメロディが、聴く者の心を打つ。
例えるならば、キース・ジャレットの必殺メロディの「マイ・ソング」。くしくもここでのサックスもヤン・ガルバレク。今に至っても、ヤンにとっても最大のヒット曲だという事実は、覆しようのない事実だ。
結局は、ヴィトウスの音楽には、常にわかりにくさがつきまとっている。音楽性の深さがそのままポピュラーな人気につながらないという好例ではあるものの、その一種頑固なわかりにくさは、ヴィトウスが抜けた「ウェザー・リポート」がフュージョン界NO.1にまで上り詰めたのと関係性が無いわけではない。
ヴィトウスにそれほど悪気はなかったのだろうが、ウェザー・リポート脱退時に金銭的なゴタゴタがあった。それ以来、自身を見出してくれたジョー・ザビヌルとは疎遠になってしまう。お互い事情も立場もあるだろうが、この一件が、ヴィトウスにとっては、非常なマイナスに働いたように思えて仕方がない。
有り余るベーシストとしての才能をもってすれば、ウェザー・リポートに頼らなくとも、十分に輝かしい未来があったはずだ。ヴィトウスが言うように、ウェザー・リポートがコマーシャルな音楽に流れ、ヴィトウスを必要としなくなったというのならば、尚更、潔くきれいに離れるべきではなかったのか。ヴィトウスは、仲間別れをしたことで、自らが、道を狭くしてしまったのではないだろうか。そういった意味でも、ジャズ界にとっても、まことに惜しい人としか思えない。
第3位 「チャック・レイニー」
チャック・レイニーはジャズ・ベーシストというよりも、良質なセッションマンだった。それも、常にその音楽には、良きドラマーとのコンビがあった。そのキャリアの最初期において、サックス奏者キング・カーティスのバンドでのバーナード・パーディーの出会いは、チャックのセッション・ベース・マンとしての成功を決定ずけたものだった。
1969年からキング・カーティスが亡くなる71年までのこのバンド「キング・ピンズ」は当時のニューヨークにおける最先端のサウンド。アレサ・フランクリンのバックでの「フィルモア・ウェスト」の名演や、メンバーにこの後大ブレイクするダニー・ハザウェイを要するなど、誰もがあこがれたサウンドだった。
ランディ・ブレッカー「スコア」
当時のサウンドがいかにヒップだったかという証拠のようなアルバムが、後の「ブレッカー・ブラザース」でフュージョン界を席巻するトランペット奏者ランディ・ブレッカーの「スコア」だ。
ここでは、表題曲でのチャック・レイニーとバーナード・パーディの参加が、ニューヨークの若手ミュージシャンの彼らのサウンドへのあこがれを端的に表している。ここでの弟、後のジャズサックス界の巨匠になるマイケル・ブレッカーがキング・カーティス寄りなのがはっきりわかる。それほどに、最先端だった。
そして、次にチャックは自身のキャリア上最重要なドラマーと出会うことになる。ハービー・メイソンである。そしてこのコンビは、ラリーとフォンスのミゼル兄弟という当時の最強最新アレンジャーと出会い、ジャズ・フュージョン史に残る名コンビとなっていく。
ドナルド・バード「ブラック・バード」
その最初の結晶でもあり、最大のヒットがベテラントランペッター起死回生の大ヒットとなった、ドナルド・バードの「ブラック・バード」だ。
ここでは全曲、スカイハイ・サウンドと言われた、かれらの結晶が聴くことができる。特に3曲目「ラヴズ・ソー・ファー・ラウェイ」は、独特の浮遊感漂う極上のサウンドになっており、ここにきて、チャックが一介のセッションマンからジャズ・フュージョン・ベースの巨匠の仲間入りを果たしたことになった。
ドラム
おそらくは、人類の手により始めて発明されたであろう楽器が、ドラムだ。ドラムには、太古より脈々と受け継がれてきた人間の鼓動がある。人類発祥の地、アフリカの流れをくむジャズにおいて、躍動感にあふれ、音楽を引っ張っていくものはドラムをおいて他はない。ジャズの根源、ドラマーから発せられる魂の律動を聴け!
第1位 「マックス・ローチ」
マックス・ローチは、モダンジャズの始まり、「ビ・バップ」から頭角を現し、モダン・ジャズ期にリーダーとして活躍した第一人者だ。チャーリー・パーカーをはじめ、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィス、バド・パウエル、チャールズ・ミンガス、ソニー・ロリンズらそうそうたるメンバーと共演した、いわばモダン・ジャズ・ドラムそのものと言っても良い存在だ。
マックス・ローチ「イン・コンサート」
そして、マックス最大の出会いは、不世出のトランペッター「クリフォード・ブラウン」とのものであろう。「イン・コンサート」は、この早逝した天才トランペッター、クリフォードの最高のパフォーマンスとして有名なもの。同時に、当時マックスが率いていたバンドの絶頂期をとらえたものだ。
デューク・ジョーダン作曲の「ジョードゥ」に始まり、バラードの「言い出しかねて」続く「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」。そして最後の「クリフォード・アクス」までまるで熱に浮かされたかのようなアドリブソロが一気に創出される。
この幸せな時間を共有したマックスは、この至高の時間がいつまでも続くことを信じてやまなかったのではないか。むしろ、さらなる高みにまで到達することは、この後のテナーサックス奏者ソニ・ロリンズの参加によって約束されていたと言える。
このライブの2年後にクリフォード・ブラウンを突然の交通事故で失い、マックスの創作意欲も一時失いかかったというのは、あながち間違いではない。マックスが2007年に亡くなった今の目からすると明らかだ。
ドラマーとして、たぐいまれな才能にあふれ、幾多の名演にその名を印したマックスだったが、やはりこのクリフォードとのバンドにこそ、その真価があったと言える。
バド・パウエル「ジ・アメイジング・バド・パウエルVOL.1」
ドラマーとしての凄みは、バド・パウエルのブルーノート盤にとどめを刺す。ウン・ポコ・ロコの狂気のカウベルに、バドと対等に張り合う天才の姿を見ることができる。
「ジャズ・イン・3/4・タイム」
一転リラックスしたマックスはこちら。三拍子のジャズが楽しくスイングする、あまり知られていない名盤。ソニー・ロリンズの参加による相性は、モダン・ジャズ史上最高傑作の呼び声高い「サキソフォン・コロッサス」によって証明済み。
第2位 「デニス・チェンバース」
1959年生まれのデニス・チェンバースが、最初に注目されたのは、18歳にして参加したジョージ・クリントンのファンクバンド「パーラメント・ファンカデリック」からだ。バリバリのファンク・ドラマーだったデニスが、次に注目されるのがジョン・スコフィールド(ギター)のバンド。以来、この自身の代表作「アウト・ブレイク」を吹き込むまでにメジャー街道を文字通り驀進している。
デニス・チェンバース「アウト・ブレイク」
デニスの重量感がありながらも切れ味のよいスネア・ドラムとバス・ドラムの音は、数多のドラマーの中にあっても、聴く者をハッとさせるスリルがある。
そのスタイルが、余すところなく発揮されたのがこの「アウト・ブレイク」の表題曲の「アウト・ブレイク」。
マイケル・ブレッカーのソロのバックでのドラミングは伴奏を超えたドラム・ソロのように聴こえる。その後のソロも秀逸。
ジョン・スコフィールド「ピック・ヒッツ」
デニスの出世作となったのが、ギタリスト、ジョン・スコフィールドの伝説となったライブ盤、「ピック・ヒッツ」ここでも、時に主役を食ってしまうデニスの縦横無尽なドラミングが楽しめる。
バーバラ・ディナーリン「ザッツ・ミー」
女性ながら、骨太なオルガンプレイに定評があるバーバラ・ディナーリンのバックに回っても、デニスはいつものファンクなドラミング。「グランド・ファーザーズ・ファンク」はお手の物のファンク作品。美女のバックで、楽しげに、ドラムを叩く様子が想像できる。
第3位 「スティーブ・ガッド」
スティーブ・ガッド「スモーキン・イン・ザ・ピット」
80年代のスティーヴ・ガッドの凄みは、何と表現したらよいのだろう。70年代から無数のスタジオをこなし、職業としてのドラマーとしては頂点を極めたファースト・コールが、時折りみせる、ジャズメンとしての凄み。
それは、一言で言えば、独自の表現方法を極めたスタイリストとしての矜持と言ったものではなかったのか。
ヴィブラフォンのマイク・マイニエリが日本へ呼ばれた際に集めたメンバーによって日本で結成された「ステップス」というバンド。まさに、急造なその場限りのバンドにおけるガッドの演奏は、おそらくはガッド畢生の名演と呼べるものになった。
全曲熱い演奏が繰り広げられるが、特にマイケル・ブレッカーのオリジナル「ノット・エチオピア」には特別に渡辺香津美(ギター)が加わり、マイケル・ブレッカーもベストの演奏を聴かせる。そして、その後のスティーヴのソロは、持てるテクニックのすべてを刹那にかけるかのような鬼気迫る演奏。
ピアノ
ピアノは、本来打楽器だ。そしてメロディ楽器である。さらには、伴奏楽器、そしてオーケストラにもなりうる。あらゆる楽器の特色を持ち、その上ピアノ独自の世界感を持つ万能に近い楽器だ。そして、それを奏でるのは、あらゆる面で万能ではない人間による。そこにこそ、ストーリーやドラマ、感動が生まれる。ピアノは、鳴っているのではない、鳴らされているのだ。
第1位 「ポール・ブレイ」
ポール・ブレイはカナダのモントリオールに1932年、生まれる。かの地には、後に渡米しジャズピアノ界に君臨する7歳上のオスカー・ピーターソンがいた。ブレイは、当然のようにその偉大な先輩の影を追った青春を過ごした。46年にオスカーがアメリカに渡ると、その後釜としてしっかりと基礎を築いたのだ。そして、満を持してニューヨークに行くのが1950年になる。
当初は、バップピアニストだったポールだが、いち早く時代の流れに乗り、モダン・ジャズ最盛期にあって次の時代を感じさせるニューシング、「フリー・ジャズ」のテイストを身につけていく。
ポール・ブレイ「フット・ルース」
なかでもオススメなのが、この1962、63年録音の「フットルース」。当時、ニューシングへも関心を示していた老舗のサヴォイへ吹き込まれたこの作品は、後進の大物キース・ジャレットをして、「無人島に持っていく1枚」と言わしめた傑作。
オーネット・コールマン作曲による、一聴コミカルにさえ聴こえる1曲目に続く2曲目「フローター」において、早くもこの当時のポールの持っていた前衛的な演奏を聴くことができる。この曲は、一時期ポールと夫婦の関係になるカーラ・ブレイの作品。
カーラ特有の美意識によるフリー風なモード演奏ともいうべきもので、ポールにとってカーラとの出会いの意味の大きさをうかがい知ることができる演奏になっている。
この時期のポールの演奏が、後にキース・ジャレットに与えた影響は計り知れないものがある。前述した、フランスのジャズ誌「JAZZHOT」に載ったキースの無人島へもっていくレコードには、実はあと3枚あり(インタビュアーが3枚と聞いたら、4枚あげた)ビートルズの最新作(1969年のインタビューのため、おそらくは9月に発売されたアビー・ロード)とスコット・ジョブリン(スコットのものならばなんでもと答えている)、ソニー・ロリンズ「ソニー・ミーツ・ホーク」とこのポールの「フット・ルース」である。
実は「ソニー・ミーツ・ホーク」のピアノはポール・ブレイ。4枚中2枚にポールの名前が出てくるあたり、キースのアイドルがポールだった(もちろんマッカートニーではなく、ブレイ)のは間違いがない。
「アーリー・トリオス」
アメリカに来て最初期のトリオアルバムでは、チャールズ・ミンガスとアート・ブレイキーというオールスターのサポートを受け、楽しげにバップスタイルで快調に飛ばす若き日のポールの姿がある。これはこれで、すがすがしい。
第2位 「ウィントン・ケリー」
1931年生まれのウィントン・ケリーは、20年代生まれが築き上げたと言ってよいモダンジャズのピアノの中にあっては、次世代とでもいうべき位置にある。
一世代前のピアニストが試行錯誤の中で見出した、モダンジャズピアノのスタイルを、最も強く引き継ぎ、発展させたと言える。
1924年生まれのバド・パウエルによってもたらされた決定盤ともいうべきスタイルを当たり前のこととして享受することができた次世代のピアニストたちは、スタイルに対する探究ではなく、ひたすらスイングすることに専念できたと言ってよい。そういった次世代のピアニストの中では、間違いなく1,2位を争うスイング感を有していたのが、ウィントンだ。
ウィントン・ケリー「ウィントン・ケリー!(枯葉)」
また、帝王マイルスがお気に入りだったことでも有名なウィントン、そのマイルスのバンドでとトリオを組んでいた、ポール・チェンバースとジミー・コブとの「ウィントン・ケリー!(枯葉)」は、代表作。
全曲スインギーな好演だが、2曲目にひっそりと置かれた「メイク・ザ・マン・ラブ・ミー」が良い。ウィントンは、速いテンポでは猛烈にスイングし、そこが最大の魅力でもあるが、一転バラードやミディアムテンポでの抒情あふれる感性も、瑞々しく美しい。そういった良い面が、この小品から漂って、品のある演奏になっている。
ハンク・モブレー「ソウル・ステーション」
盟友ハンク・モブレーの代表作としても知られる「ソウル・ステーション」では、有名な1曲目「リメンバー」のあとに続く2曲目「ディス・アイ・ディグ・オブ・ユー」において、ハンクの雰囲気たっぷりのテーマの後に弾んで出るウィントンのソロが出色。好調を保っている。
「ケリー・アット・ミッドナイト」
同じマイルスバンドの今度はドラマーがフィリー・ジョー・ジョーンズに変わった「ケリー・アット・ミッドナイト」も楽しい1枚。最後の曲ブルースの「ポット・ラック」が快調なウィントンの得意なブルースプレイを聴くことができる。ジミー・コブに比べ、派手なフィリーのドラムを、賑やかで良いと取るか、若干うるさいと取るかで、評価の分かれる作品。ウィントンも、フィリーに触発されて、いつも以上に張り切っている様がうかがえる。
第3位 「ブラッド・メルドー」
現代を代表するジャズピアニストと言えば、必ずあがってくるであろう一人が、ブラッド・メルドーだ。
本来のジャズが持つ多様性と、音楽情勢の流行や変化を吸収して独自の発展をしてきた歴史の中において、まさしくブラッドこそは現代におけるジャズピアニストと言える。実際にブラッドが演奏しているものが、ジャズとは呼べないジャンルのものにおいてさえ、強烈にジャズとして自分の中で昇華したものを聴かせてくれる。
ブラッド・メルドー「ラーゴ」
そのブラッドも持つ傾向が顕著に表れたアルバムが「ラーゴ」だ。ここには、リズムやサウンドの面で、現代が持ちえるあらゆる手段や可能性と言ったものが、ブラッドというフィルターを通してジャズとして聴こえてくる。
おそらくは、本人は意識していないだろうが、ここで聴くことができる音楽は、ブラッドのジャズなのだ。
この「ラーゴ」以前のピアノ・トリオを中心とした活動はもちろん、ここにおいて聴くことのできるサウンドは、ロック調であろうと、ビートルズであろうと、まぎれもないブラッドのジャズになっている。
そのブラッドがヴァイブを弾いたビートルズの「マザー・ネーチャーズ・サン」から終曲ピアノソロで奏でる「アイ・ドゥ」への流れが見事。また最初から、ブラッドの世界へ浸ってみたいと思わせるエンディングになっていて見事。
テナーサックス
テナーサックスほど男臭さを感じさせる楽器は無い。ある時は語り、ある時は叫び、ある時は泣き、そしてある時は口説く。真面目でなくては、テナー習得は出来ず、真面目なだけでは馬鹿にされる。幾つになっても不良に憧れ、オリジナルにこだわる、人間臭い男たちの一人語りを聴いてみよう。
第1位 「ビリー・ミッチェル」
ジョン・コルトレーンと同じ1926年に生まれ、チャーリー・パーカーと同郷のテナーマン、ビリーミッチェルは、経歴だけを見ればある程度華々しいものに思える。50年代はウディ・ハーマンやディジー・ガレスピーのビッグバンドに在籍し、60年代には、エディ・ロックジョウ・デイヴィスの後釜としてカウント・ベイシーのビッグバンドに入る。本来ならば、もっと知られて良いジャズマンだが、その実力に比例することなく、人気の点ではどういうわけかパッとしないままにそのほとんどのキャリアを過ごした。
ビリー・ミッチェル「ディス・イズ・ビリー・ミッチェル」
彼の代表作「ディス・イズ・ビリー・ミッチェル」を聴けば、メジャーになりきれなかった男の、革新性はないが、年季の入ったシンガーのような落ち着き、悲哀や深み、渋みの全てを感じることができる。
全曲オススメだが、特に1曲目「J&B」。ジャケットの青い煙を思わせるような、ゆらゆらとまとわりつくように立ち込めるテナーの出だしが、雰囲気たっぷりで秀逸。魅力的なテーマと、男臭いビターな音色がベストマッチの好演。
続く2曲目「ソフィスティテッド・レイディ」や、ミディアムテンポに乗って、ゆったりと歌い上げる3曲目「ユー・ターンンド・テーブル・オン・ミー」など、聴くほどにどんどんとビリーの世界に引きずり込まれてしまう。ハンク・モブレーと同じように、決して大音量だけでは勝負しない大人の貫録を感じさせるテナーマンだ。
リー・モーガン他「ディジー・アトモスフィア」
ジャムセッション風の快演、「ディジー・アトモスフィア」もオススメ。リーダー作の少なさと周りと合わせる協調性がありすぎることが、彼をして、通好みの知る人ぞ知る存在にした。
第2位 「JRモンテローズ」
フランク・アンソニー・ピーター・ヴィンセント・モンテローズ・ジュニアという長い名前を持つ孤高のテナーマンが生まれたのは、1927年デトロイトだった。
JRモンテローズ「ザ・メッセージ
多くの野心を持ったジャズメンと同じくニューヨークにやってきた彼の数少ないリーダー作の中で、紛れもなくベストであり、あらゆるモダンジャズのテナー作品の中でも屈指の傑作が「ザ・メッセージ」
スタンダードの「ゲット・ハッピー」のコード進行をもとに作られた1曲目の「ストレイト・アヘッド」の思い詰めたような緊迫感。アルバムタイトルの「メッセージ」に表わされるように、何かを伝えずにはいられない切羽詰まった男の生き様が伝わり、聴いている我々も瞬時に熱くなる。後半のドラムのピート・ラ・ロッカとのバースは秀逸。マイクが拾った思わず「イェー」と声に出しのけぞるミュージシャンの熱い緊張が生々しい。
続く2曲目の「コートにすみれを」の凛凛しいロマンティシズム。世渡りが下手なために、過小評価に甘んじてしまった男の熱い愛のメッセージにうたれる。その後もラストの「ショート・ブリッジ」まで息もつかせぬ名演が続く奇跡のような名盤。
第3位 「ジョー・ロヴァーノ」
「ジョー・ロヴァーノ」は、身体全体からモダンジャズの雰囲気を身につけた次世代のソニー・ロリンズだ。割り切れるルーティンのフレージングがゆえに単調になってしまっている現代の多くのサックス奏者の中で、ジョーの存在感は、何を吹いてもモダンジャズそのものだった全盛期の1957年当時のソニー・ロリンズに近いものがある。
ジョーは地元のクリーブランドでは有名なサックス奏者の父親、通称“BIG・T”ロヴァーノの影響で6歳からアルトを始め、11歳でテナーに転向。ウディ・ハーマンやメル・ルイスのビッグバンドで腕を磨き、その後はニューヨークでややフリーに傾いた。その辺も、RCA時代のロリンズと重なり、それが結果としてテナーの幅が広がり、彼のサウンドに厚みと余裕と、そして何よりも現代では稀有のモダンジャズの雰囲気を湛えた感性をもたらした。
昨今、テナーサックスのフレージングはコルトレーンの亜流がいまだに主流であり、画一的で、リズム的に裏を強調しないで、遊びが少ない4ビートの揺らぎを感じさせないサックス奏者ばかりの観がある中、ジョーの感性は貴重だと言える。
ジョー・ロヴァーノ「テナー・タイム」
現代に生きるジャズテナーマンとして、色々と実験も多い彼の作品の中では「テナータイム」が傑作。どの演奏を聴いても、男臭いモダンジャズを匂わすダンディズムに溢れている。